学校 みやぎ鎮魂の日

 みやぎ鎮魂の日、本校では東日本大震災で犠牲となられた方々へ哀悼の意を表し、校長が放送にて話をしました。

 震災当時、七ヶ浜町も津波により甚大な被害を受け、多くの家庭が被災しました。校長は、当時の状況を振り返り、犠牲者への追悼の言葉とともに、震災の教訓を語りました。生徒は、震災の記憶を風化させることなく、教訓を未来に繋いでいき、日頃から防災意識を高め、いざという時には互いに助け合い、命を守る行動をとってほしいと思います。

 

本日の校長講話で話した、「震災時の経験」の一部を「続き」に掲載します。

<校長は震災時に塩竈市立浦戸中学校に勤務していました。その時の記録の一部を冒頭部分紹介をします。>

 浦戸中学校は、塩竈市にある離島浦戸諸島にあります。小中併設校で当時中学生が22名在籍していました。

 3月11日は,午前中は中学校の卒業式でした。卒業生と小学生は,先に下校し,1,2年生は2時21分,学校のある野々島桟橋から塩竈桟橋に向けて下校しました。

 ちょうど私も出張のため,ただ一人の教員としてたまたま生徒ともに乗船しました。学校には児童生徒はおらず,職員のみでした。

 そして,14時46分,私の携帯の緊急地震速報がなり,船の上でも経験したことのない揺れが起こりました。すぐに前方にいた生徒10名に地震が起こっていることを伝え,落ち着いて行動するように指示をしました。携帯の速報を見ると,震度7,遠くを見ると火の手が上がっており,この地震はただごとではないとすぐに理解しました。

 生徒を座席の1ヶ所に集め,これから下船するが,まとまって動くよう話しました。下船した後,パニックにならないように考えました。生徒たちは少し恐怖を抱いている様子でしたが,落ち着いて話を聞いていました。学校には教頭あてに携帯で「船の上です。生徒は無事です。学校は?」とメールを送信しました。

 14時55分頃,塩竈桟橋に着岸しました。もう桟橋の防潮堤の水門が閉まろうとしていましたので,これは津波がくるに違いないと考えました。生徒にはすぐに桟橋脇の緊急避難場所に指定されているマリンゲート塩竈という3階建ての施設に逃げるよう大声で指示しました。

 生徒を迎えに来ていた保護者は先にマリンゲートに避難していましたが,路上にいた保護者もおり,その保護者にも大声で車を乗り捨てて,避難するように声をかけました。避難は1分程度で完了しました。最上階の3 F にあがり,保護者と合流,人数確認したり,トイレに行くときは親とともに行くように生徒と保護者に指示しました。

 携帯で何度か学校に状況を報告したり,津波の情報を得ました。10mの津波の情報となり,津波がまもなく防潮堤を越え,押し寄せました。泣いてしゃがみ込む女生徒もいましたので,生徒には津波を見せないように屋内に待機させました。その後さらに安全策として,4 F の展望台まで生徒を避難させました。

 島の子どもたちが心配でしたので,携帯で保護者や生徒に連絡を取り,家は流されたものの,全員無事であることを確認し,学校にも報告しました。
 大津波警報が出ておりマリンゲートからは出られない状況で,保護者,生徒ともにその日はマリンゲートで一夜を過ごしました。